主要関与商品一覧
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KEMCO
インドラの光
1983年 プログラマ

初めてのコンシューマー・プロダクト
この前に、森進一がCMに出ていたIBM JXという超マイナーパソコンのゲーム開発にアシスタントで携わった事があります。ただ、こっちは、実際に商品も出なかったのかな?神戸に単身赴任して自分の肥満のもとを作っただけという哀しいプロジェクトになってしまいました。だから、このインドラの光がはじめてスタッフロールに名前がのった作品じゃないかと思います。
砂漠の狐
1984年 企画・プログラマ・チームリーダー

初めての企画、リーダー
初めて自分の企画で作ったソフトです。とはいえ、様々なアイディアやデータ構造を上司や先輩に教えられながら作っていった思い出深いプロダクトです。
このころスケジュール管理に初めてシステム手帳を使い始めました。仕事を自らコントロールすることの面白さに感激したのはこのプロダクトが最初です。誰かに振られた仕事ではなく自分が作った仕事。このことが仕事へのモチベーションを強烈に高めてくれます。
銀河英雄伝説
1984年 企画・プログラマ・チームリーダー

様々な失敗
このプロダクトには様々な失敗が塗り込められています。リーダーとしての失敗、企画としての失敗。苦々しい思い出が詰まっています。でもWebでこのゲームを純粋に楽しんでくださった方達のコメントを幾つか拝見して救われた思いもまたあります。自分に確信があれば、面白いと言ってくれる人は必ずいます。自分を失わないことがなにより大切だと教えてくれたプロダクトです。
COMPILE
ディスクステーション98
1990年〜1992年 #0〜#20 編集長

大勢の部下にパニくる
月刊でゲームを作るという実験的な試みがなされたプロダクトです。最初隔月刊、途中から間に特別号が入り、最終的には完全月刊化しました。当然、死ぬほど忙しく、マスターを出した週だけは8時頃帰れるけど後は、全部午前様状態の進行が続きました。前後編に別れたもの、連載などいろいろなゲームの形態が試せた場です。ほんの数人だったスタッフもどんどんふくらみあっという間に10人以上のチームに。多くの部下を預けられパニクってスタッフには迷惑をかけたなあ。ごめんなさい。
魔道物語A・R・S
1993年 ディレクター代行

あり得るのか、こんなこと。
恥ずかしながら、このゲームを途中から担当させてもらってはじめて魔導物語をまともにプレイしました。当時としては高精細なPC98で、1−2−3とは違うアルルが楽しめます。画像をクリックするとニコ動でデモが見られます。UP主様ありがとうございます。
幻世喜譚
1995年 ディレクター

思い出深い一品
2回のリメイクを繰り返し、3回目の正直に世に出せた思い出深いプロダクトです。DSで評価の高い作品を単品作品、コンシューマーへと昇華させるというDSのコンセプトを実現した最初の作品になりました。いまもファンサイトなどで話題に上っているのを見るとこみあげてくるものがあります。画像をクリックするとニコ動へジャンプします。UP主様ありがとうございます。それにしても、セニョール元気にしてんのかなあ。
ディスクステーションWindows版
1993年〜1997年 #0〜#18 盤監

時代の流れ、Windows
雑誌とゲームがドッキングした新しいコンセプトの商品です。コンビニエンスストアや書店でも販売されました。ゲームも体験版などでなく、最後までたっぷり遊べるオリジナルゲームやアニメムービーなど盛りだくさんです。当時のPCの新技術にその都度チャレンジしながら作り続けた思い出のシリーズです。大勢のスタッフの努力の結晶です。
ただ、後半の数年はボク自身が開発に関わることがドンドン少なくなり、人事だの外部提携だのコーディネートといった新しい仕事に関わることが多くなってきました。一面エキサイティングだけど、一面とても寂しい時期でした。新しい場所に立つということは、従来の人々とふれあう時間はどうしても減ってしまうことでもあります。
After Devil Force
1998年 プロデューサー

Loginとのコラボレーション
ログインとのコラボレーションで作られた作品です。制作の進行とともにログインに記事が載る形で進みました。COMPILEらしくない硬派なヴィジュアルと内容を目指しある程度それは実現できたと思いますが、コンパイルが和議申請することになり、中途で終わらねばならなかったことが残念でなりません。開発メンバーのリストラを終え、社屋も移転し落ち着いた後、ボク自身もコンパイルを退職しました。自分の先輩や夢を持って入社したスタッフを自分の判断でリストラリストに載せてしまった後、自分が残っていることがイヤでしかたなかったんですね。画像をクリックするとニコ動でデモが見られます。UP主様ありがとうございます。
SOFTFACTORY
初恋ばれんたいん
1999年 ディレクター
起業後の初のパッケージ
まだ、プログラマーが社員としていない状態で手探りで完成までこぎつけました。
苦労しました。スタッフの自宅作業制ではじめたSOFTFACTORYでしたが、やはりボリュームが大きな製品にはノーマルな作業スタイルが良いと痛感させれました。それで事務所を自宅から光町のマンションに移すことにしました。
あすか120%
1999年 ディレクター

わからないものはつくっちゃダメ
ボクは2D格闘が大の苦手です。社員のプログラマが2D格闘が大好きだったので、受託した作品です。でも、できあがっても製品の良否が自分で判断できませんでした。後から知ったことですが評判は悪かったみたいです。客先はストレートに「出来が悪い」とは言ってくれません。全ては自分の軽率な判断が原因です。猛省の一本です。
ハイパー・レディ・タイピングマスター
2000年 企画・プログラム・ディレクター

初のShockwaveでの制作
弊社ではShockwave(MacromedeiaDirecorで制作する)の作品は何本か手がけたのですがこれが最初の作品です。自分が久々にプログラムを書いて商品化しました。同時にMac版も開発。仕事で初めてちゃんとMacを触りました。グラファイトのiMacDVです。キャラデザインは現役の漫画家さんに担当して頂きました。
エジプトゲームズ
2000年 企画・ディレクター

アジアのゲーム集
あまりにも地味な内容ですが(笑)収録されたミニゲームはどれもHotにさせるものばかりです。福山のCG会社にCGやプログラムをの一部を依頼して制作しました。一部には自分がCGを作ったものもあります。このあと、ショックウエイブ版も作ったりとあとにいろいろ続く展開となりました。ゲームと遊びという、ゲーム開発における根本的な関係をいろいろ考えることができたプロダクトになりました。
ブレイク・アウト・エアライン
2000年 ディレクター


初のR18作品
どういう経緯でR18製品に手を染めることになったのかよく分からないのですが、これ以前にファミリーソフト様から狩娘(かるめす)という作品を受託してからなし崩し的にはじめたのかな?この作品はパブリッシャーであるファミリーソフトの社長の原案から話が始まったのだけど…ああ、覚えていないなあ。ボクもスタッフもコンパイルのディスクステーション出身ということで、どこでもミニゲームの挿入を求められました(笑)。
このゲームにもいろいろフライトシミュレータ的な要素が入っています。
ほたるのひかり
2001年 プロデューサー

R18路線の継続
客先とスタッフのおかげで、ソフトファクトリーを開発ラインとして新しいブランドが立ち上がりました。なんとか売り上げの柱にしていきたいと動き始めた頃の作品です。1DKの狭い事務所に人も増えて大変でした(笑)
しげっちとタイピング
2001年 企画・プログラム・ディレクター
大好きな作品
ボーステック様から「しげっち」を使ってなにか…という事から企画した作品です。プログラマが忙しくて自分がプログラムを書きました。このころはソフトファクトリーのメンバーも安定して、外部スタッフも増えて一番調子よかったころですね。
蒼惶の城
2002年 プロデューサー


この頃講師の仕事を始めたのかな
チーフプログラムのH君が作ったシステムから膨らましてできあがった企画です。原画のYさんの尽力でプロジェクト実現にこぎつける原動力となりました。ソフトファクトリーらしいR18作品というのをいろいろ模索していた時期ですね。3Dダンジョンもので、マウスで模様を描いて攻撃を行うという、当時珍しかったシステムを採用しました。開発の現場はディレクターに任しておける状況ができてきたので、ボク自身は講師の仕事も始めるようになりました。友人と学習塾も始めてまして、いちばん忙しい時期だったかも知れません。
カプセルメイドありす
2002年 プロデューサー

新しい原画家さんを起用
従来から原画をお願いしていた矢凪さんだけでは手が足りなくなり新しい原画家起用するようになりました。とはいえ、零細企業のやることですからさまざまな不満や軋轢が生まれていきます。ソフトファクトリーの売り上げの伸びが止まったのがこの年です。
不景気な世の中でなんとか仕事を確保してきたことで、自分の中に油断が出来ていたのかも知れません。翌年、ソフトファクトリーは地獄を見ることになります。
しげっちとタイピング2
2002年 企画・ディレクター
好評だったそうで…
Loremしげっちとタイピングはおかげさまで好評を頂いたとのことで内容をグレードアップして2の開発に臨みました。このときはLINGOのプログラムはN君がボクより上手くなっていたのでこのときから、LINGOは全部彼にお願いするようになりました。
ソフトウェア的にもより進歩したプロダクトになっていると思います。
つばさのうた
2003年 プロデューサー

専門学校生から原画家デビュー
さらに、ソフトファクトリー独自でオクターブというR18ブランドを立ち上げることに。バブル崩壊後の不景気もまさにどん底状態にあった時期で、客先が発売タイトル数を大幅に絞ることになり経営は大変苦しくなりました。この時期スタッフも一部入れ替わり不慣れからお客様とトラブルなど波乱含みの2003年が始まります。
保母さんチュッ!
2003年 プロデューサー
最後のR18作品
社内体制を変え、なんとか、新しい客先の開拓を…ということでスタートしたプロダクトです。シナリオライターも、原画家も新しくなりましたが、ルートツー様という良い客先に恵まれ充実したプロダクトになりました。
しかし、この作品終了後ソフトファクトリーは資金難から民事再生を申し出ることになります。みんなが頑張って開発途上で中断という最悪の事態は防ぐことは出来ましたが、スタッフの皆さんに多大な迷惑をかけることになってしまいました。本当に申し訳なかったと思います。そんななかで、民事再生を認めてくれたスタッフの言葉が今でも胸にしみます。ボクの人生の中で最も厳しい1年となったのが2003年でしたが、人の情けのありがたさを知った忘れがたい年でもあります。
携帯版倉庫番
2004年 コーディネーター


大幅縮小状態
ソフトファクトリーは事務所やその他権利を売却して、解散。福山の穴吹コンピュータ専門学校などでの講師の仕事やWeb、ビジネスソフトの受託などを一人でこなすようになりました。そんなときに、DSやソフトファクトリー時代の仲間やお客様から仕事のオファーを引き続き頂きました。ソフトファクトリー時代に手伝ってくれたメンバーに参加してもらい、ほそぼそと開発の仕事もして、自分自身を模索していた時期です。しかし、自分に何が出来るのか全く見えず、暗闇を歩いているような時期です。
DAISO HP おつかいKING1/2/3/4
2005年 企画・コーディネーター
細々と企画開発
おつかいKINGのページにジャンプ
「ビジネスの失敗はビジネスで取り返せ」とお客様や社長をやっていた友人達ははげましてくれました。でも、ことのときのボクにはビジネスを再開する元気や資金も残っていませんでした。お客様だった会社でのSE業や、講師業を2足のわらじでやりながら、小さな開発の仕事があれば、友人知人に依頼して開発も行うという、方針もビジョンもない漂流状態というか、迷走状態の時期に作ったのがこの4本です。
子供向けのシンプルなゲームにまとめながら、少しだけ実験要素もいれたりもしています。上記のアドレスからジャンプして遊べます。
携帯アプリ スクエアエニックス・パズル
2006年 コーディネーター
最後のゲーム
自分が業務をSEなどの業務に軸足を移すためにこれが最後の受注となりました。
携帯アプリの受注はスタッフの方に直接発注をしていただけるよう依頼したのですが、お客様もまたゲームから撤退されるということで、収縮期に入っていた業界の一端を感じさせる出来事でした。
そして、今後の開発
2010年 なんでもやるぞ!
講師業務を中心に2008年から講師業務が大きな割合を占めるようになり、開発へ手が回らない状態が続いていました。講師の仕事のためのいろいろなテキストも書きためることができてきたことから来年からiOSに絞ってコンパクトな開発を行っていこうと思っています。ゲームに限らず、人の役に立つもの、人を楽しくさせるもの、を目指して開発を進めていきます。随時このホームページで報告していきたいと思います。
